1. 覚悟の雨音、水玉模様の出発
4時起床。屋根を叩く雨音は、昨日よりも激しさを増していた。
朝食を食べながら、母と今日の動きを確認する。
外は強い雨だが、二人の心は決まっていた。
「少し雨が落ち着いたら、行こう」
5時42分、私たちは雨の中へ踏み出した。
目指すは黒部五郎岳を越え、初日の宿泊地である太郎平小屋。
距離にして11.9km。
母の刺す傘は、山には少し不釣り合いな白と緑の水玉模様だった。
その明るい色が、グレー一色の雨の世界でどこか可笑しく、私の緊張をふっと解いてくれた。

Screenshot
2. 「道が川になる」を知っている背中
大雨の影響で、登山道は至る所が深い水溜まりや、濁った流れに変わっていた。
岩の上を慎重に辿るが、時折「ポシャり」と足が沈む。
私は顔をしかめたが、母は驚く様子もない。

Screenshot
「こういう道、何度も通ってきたから。雨が降れば道は川になるのよ」
暑がりな母は、雨具の中の衣類を脱いで淡々と体温を調整する。
その落ち着いた姿に、母が歩んできた年月の重みを感じずにはいられなかった。

視界を遮るガスの中、スイス人の若い男性 hiker に追い越された。
母の大きな荷物を見て、彼は「荷物を持ちましょうか?」と声をかけてくれた。
母は笑顔で「ありがとう、大丈夫よ」と答える。
国境を越えて、誰かが思わず手を貸したくなるような何かが、母の歩く後ろ姿には宿っていたのだろう。
霧の中で一緒に撮ったその若者パーティーとの4人の写真は、今も温かい記憶として残っている。
3. 真っ白な山頂と、祝福の声
9時06分、黒部五郎の肩。
荷物をデポして、山頂へ向かう。
どう見ても、景色は真っ白だと分かっていた。
それでも、日本百名山。
ここは、踏もうと決めていた。
9時36分、黒部五郎岳登頂。
何も見えない。
でも、一昨日、祖母岳から遠くに見ていた場所に、
今、自分たちは立っている。
遅れて母も到着する。
「荷物を下ろせば、ペース上がるって言ったでしょ?」
……いつも通りの一歩一歩だったけれど。

その時、霧の中から雷鳥の鳴き声が聞こえた。
岩の上に、一羽。
まるで、祝福されているようだった。

4. 長い道の途中で
ここから、まだ太郎平小屋までの三分の一ほどしか来ていない。
雨は、降ったり止んだり。
すれ違った登山者は、たった6人。
普通の感覚なら、選ばない一日かもしれない。
それでも歩き続ける母の背中が、逞しく見えた。
雨宿りできる場所はなく、
雨が少し弱まったタイミングで昼食にする。
パンをかじり、母のテルモスのお湯で作った温かいスープを飲む。
「こんなランチ、もう二度とないかもしれないな。」
そう思うと、雨の中でも楽しかった。

5. 転倒、そして信じるという選択
赤木岳を過ぎ、
視界が少しずつ開けてきたころだった。
母が転び、頬を岩にぶつけた。
タオルで冷やす。
「大丈夫。」
荷物を少し移そうとすると、
「大丈夫って言ってるでしょ。」
強い口調だった。
自分の力を、信じている。
私は、それ以上何も言わなかった。
信じると決めた。

Screenshot
6. 夕焼けに染まる、贅沢なラストスパート
15時39分、本日最後のピーク「北ノ俣岳」に立つ。
その時、劇的な変化が訪れた。
重く垂れ込めていた雲が流れ出し、薬師岳がその雄大な姿をクリアに現したのだ。
遠い先に、今日のゴールである太郎平小屋が見える。
「見えたわ」 母の顔に、今日一番の笑顔が浮かんだ。
天気が劇的に回復し、大きな雲海が私たちの横を並走する。
沈みゆく夕日が山肌を黄金色に染め、電波が入った瞬間に山小屋へ遅れる旨を連絡した。


17時過ぎ、山小屋に到着。
スタッフの方の「お疲れ様でした」という優しい声が、身体中に染み渡る。
談話室では、この旅で出会った登山者たちとの再会があった。
行き先は違っても、この厳しい一日を共に越えてきた「同志」のような連帯感が、そこにはあった。

Screenshot
7. そして、次の日の決断
明日は薬師岳を登り、折立へ下山する予定だった。
母は、最後まで登りたいと言った。
でも、地図を何度見ても、
登頂してからの下山が、どうしても描けなかった。
話し合いの末、
明日は私が一人で薬師岳へ登り、
母は太郎平小屋で待ち、そこから一緒に下山することにした。
それは諦めではなく、自分の現在地を知るベテランの判断だった。
夜、小屋の窓から見える闇を見つめながら、私は今日一日の母の姿を思い出していた。
転んだ時の強い言葉。水玉模様の傘。雨の中で飲んだスープ。
親を想うとき、私たちはつい「してあげられること」ばかりを探してしまう。
けれど、本当に大切なのは、相手の意志を尊重し、その力を信じて隣を歩くことなのかもしれない。
明日は、私一人で頂に立つ。
そして、待っている母のもとへ、最高の景色を抱えて帰るのだ。


コメント