槍ヶ岳山荘に到着し、ついにその時が来た。 「山荘まで行ければ十分かな」と言っていた母だったが、槍が近づくにつれ、その歩みは静かに、だが確実に変わっていった。
口には出さない。ただ、目の前の槍を見据えている。 母の中ではもう、決まっていたのだ。登る、と。
1. 「飛ばされないように」――母の小さくて大きな決意
穂先へ向かうため、装備を必要最低限に絞る。 少しでも母の負担を減らそうと「水や防寒具は俺のザックに入れるよ」と提案した。ところが、母は首を振る。
「母さんは体が小さいから。風で飛ばされないように、ザックは少し重たい方がいいの」
冗談なのか、本気なのか。その言葉に、こちらの緊張が少しだけ解けた。 だが、山小屋で一緒だった登山者からは「風が強くてかなり冷える」と助言をもらっていた。標高3,000mを超える世界は、地上とは何もかもが違う。 母と互いの装備を念入りに確認し、私たちは外へ踏み出した。

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2. ガスが晴れた瞬間、現れた「貸し切りの穂先」
15時40分。山荘の外に出た瞬間、奇跡が起きた。 それまで穂先を包んでいたガスがすっと流れ、眼下には見渡す限りの雲海、頭上には突き抜けるような青空が広がった。
目の前には、くっきりと輪郭を現した槍ヶ岳。 思わず母とグータッチを交わす。 見上げても、岩壁に人影はない。母はゆっくり登る。渋滞を作ってしまうのではないかと心配していたが、どうやらこの時間は、私たちだけの槍ヶ岳になりそうだった。

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3. 25年周期の帰還。岩に刻まれた母の記憶
母が槍ヶ岳に登るのは、これで3回目だ。 20代、50代、そして今、76歳。計算すると、25年に一度のペースでこの頂を訪れていることになる。
流石は経験者だ。岩場でも迷いがない。 岩に描かれた「○」や「→」の印を正確に追い、三点支持を徹底して着実に高度を上げていく。 穂先は一方通行。すれ違いの不安がないことも、私たちの背中を後押ししてくれた。

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4. 雲海の上、鉄梯子と向き合う
少し登ると、猛烈な強風にさらされた。暑がりの母も迷わずレインウェアを着込む。 振り返れば、圧倒的な大雲海。今日の雨予報は、どうやら私たちのずっと下、雲の底の話らしい。
岩場、鎖場、そして垂直に切り立つ鉄梯子。 小柄な母の一歩では、見ているこちらが肝を冷やす場面もある。 それでも母は、一歩一歩、自分の力で岩を掴み、頂へと近づいていった。

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5. 最後の梯子。9メートルの空へ
いよいよ最後の梯子が現れた。17段と31段。最後の梯子は高さ約9メートルだ。 母が先に登り始める。私はその背中を見上げながら、ただ祈るような心地でいた。

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数分後、頭上の空から澄んだ声が響いた。 「着いたよー」 その一言で、胸の奥に張り付いていた緊張が、一気にほどけていった。
6. 山頂にいたのは、母一人だった
16時15分、登頂。 そこには、母しかいなかった。 梯子の手前の岩に、ちょこんと座っている母の姿。その姿を見た時、言葉にならない感情がこみ上げた。
再び、グータッチ。 強風に煽られながら慎重に祠(ほこら)へと向かい、二人で槍ヶ岳の看板を掲げた。 この山だけは、母と一緒に登りたい。ずっと心に秘めていた願いが、静かに叶った瞬間だった。

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7. 雲海に浮かぶ頂。あの時、あの場所でしか出会えない景色
山頂からは、360度を真っ白な雲海に囲まれた、幻想的な世界が広がっていた。 すべてが見渡せるわけではない。むしろ、厚い雲の海から北アルプスの鋭い頂だけが、まるで島のようにぽっかりと顔を出している。
東鎌尾根の荒々しい岩肌や、遠く笠ヶ岳の頂。 夕日に照らされた「影槍」が、雲海の上に長く、鮮明に伸びていた。

当初はここから南岳へ縦走する計画もあった。けれど、この景色を目にした瞬間、不思議と未練は消えていた。 「行けるところまで」と言っていた母と、こうして槍の頂に立てた。それだけで、今回の旅はもう完成していたのだ。 母は興奮する風でもなく、ただ静かに景色を見つめていた。その凛とした佇まいが、いかにも母らしいと思った。
8. ベテランの重み。下山という名の正念場
16時24分、下山開始。 槍ヶ岳山荘へ向かう岩場で、母が振り返り、真剣な顔で言った。 「ここ、気をつけて」
足場が見つかりにくい難所だった。 その短い一言に、長年山を歩き続けてきた人だけが持つ、経験の重みと深い愛情を感じた。 下山こそが登山の本番。母の背中には、一切の油断もなかった。

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9. オレンジに染まる背中
穂先が夕日に焼かれ、鮮やかなオレンジ色に染まっていく。 母の背中の向こうには、黄金色の雲海が地平線まで続いていた。

山荘へと続く最後の直線に出たとき、ようやく全身の力が抜けた。 もう、滑落の心配はない。無事に戻れた。 やり遂げた母の背中は、とても小さかったが、誰よりもかっこよく見えた。
10. 燃える空の下で、交わした言葉
山小屋に着き、二人で夕陽を眺めた。 太陽が沈んだあとも、空は燃えるような残照に包まれていた。 しばらくの間、二人とも黙ってその色を見つめていた。
「もう、十分だね」 心からそう思えた。 「明日、下山しようか」 母と顔を見合わせ、私たちは静かに頷き合った。

【お知らせ】 Instagramでは、この時の槍ヶ岳の様子を動画で投稿しています。 垂直に近い梯子を登る母の勇姿や、山頂からの圧巻のパノラマ、そして二人で交わしたグータッチの瞬間など、写真だけでは伝えきれないライブ感をぜひご覧ください。
[Instagram@tk.zero.mountain]


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